道の辻や村境、寺社や墓地の入口にこうした石仏が佇んでいるのをよく見る。中国の道教に由来する庚申信仰は江戸時代までは庶民の間に浸透していたが、明治時代になるとこれを迷信とする政府によって多くは撤去が命じられた。
その後も道路工事や宅地開発などにより撤去や移転を余儀なくされたものも少なくない。
写真は山武市寺崎、光福寺の境内にある庚申搭の説明文。
庚申搭の側面には
長谷川 修理 / 御地頭 宮城妥女
とあり、反対側の側面には
享保十七年(1732)十一月吉日
と刻まれている。
享保といえば江戸時代中期、八代将軍吉宗の時代。
前年からの天候不順により世にいう享保の大飢饉に見舞われ、餓死者12,000人におよび、江戸では米屋の焼き討ち事件が発生したとか。
寺崎村を知行地としていた旗本長谷川修理ならびに宮城妥女は、この事態を憂いて村民の安穏と五穀豊穣を祈願する庚申搭を建立した。この長谷川修理という人物、池波正太郎の名作「鬼平犯科帳」でお馴染みの長谷川平蔵宣以の祖父にあたるらしい。
ドラマ『鬼平犯科帳』の中で火付盗賊改の長官として活躍する長谷川平蔵は天明七年(1787)頃に活躍している設定。江戸府内で放火や賭博などの犯罪を取り締まる町奉行と同じ権限を持ったのが火付盗賊改という役職で、実在の平蔵もまた42歳でそのトップを任されている。当時の長谷川家は、現在の山武市寺崎で220石、九十九里町片貝に180石を所有していたとされており、実際に平蔵が当地を訪れたことがあるかどうかは別として、何気なく残されている庚申搭にその証が刻まれているのである。