東金文化会館の常設展示場は、東金市郷土史研究愛好会の企画展示が行われている。
昨年は7月から今年6月まで『市制60周年記念展~「東金と学校の歩み」』と銘打ち、
地域の学校の歩みを写真や文章で解説・展示をした。
東金市郷土史研究愛好会の全面的な情報提供のもと、その一部をリメイクして紹介する。
【檀林(だんりん)―僧侶の学校】
檀林は、仏教寺院における僧侶の養成機関、
仏教宗派の学問所のことである。
檀所、檀処、法談所、学寮、学林、禅林などとも称された。
●宮谷檀林あと‥本國寺(大網白里市)
17世紀に創設され、周辺の野呂檀林、細草檀林、小西檀林と日蓮門下の金城湯池として栄え、学徒が800名を超えたと言われる。明治2年に境内に宮谷県庁が設置されると、いったん檀林は休止したが、明治25年に大学林として復興、33年まで続けられていたという。 >
【塾・寺子屋】
中世の頃、寺院において僧侶が近在の子ども達を教育したことから起こったものだが、 江戸時代になると、学問に心得のある儒者・国学者・医者・浪人・僧侶・有力な平民などが自宅などを活用して、
7・8歳~14・5歳の子どもを教育するための学舎をさして「寺子屋」と呼ぶようになった。
東金を中心とする旧山辺郡、武射郡の特徴は、経営者ないし指導者に遊歴学者の多いことである。
これは、東金・九十九里平野は穀倉地帯として生活が豊かで富農が多く、また沿岸地域は日本有数の漁業地帯であるため、当時の網元や豪農たちの旺盛な好奇心が、有名無名の文人墨客や剣客、和算家などの遊歴を歓迎し、経済的な援助を与えていたことが大きな力となったと思われる。
有名な経済学者の佐藤信淵(出羽1769~1850)は、16歳で江戸に出て医学と蘭学を学び、天文、地理、暦法、測量から砲術、戦術、海防など広く知識と技術を身につけ世の中に広めました。
寛政9年から文政11年頃まで前後3回、通算20年あまり上総国大豆谷(まめざく)に寓居して、著作をしながら農民や門人たちに養蜂、養蚕、綿、藍葉の栽培などの農業技術を指導にあたっている。(大豆谷地区には「佐藤信淵先生家学大成之地」という石碑がある。(しゃしんがある)
因みに秋田県の彌高神社では佐藤を御祭神として祀り、6月には誕生祭として儀礼を行っている。)
成東大橋のたもとに「上総道学発祥の地」なる記念碑(しゃしんがある)がある。
この橋の架け替えにのときに江戸幕府の手代として工事監督に来ていた酒井修敬は、朱子学者稲葉迂斎の門人で、橋の完成を機に上総の地に道学(朱子学)の橋渡しをしたいと考え、土地の若者二人を迂斎に入門するように薦めた。
二人は江戸で道学を学び、帰郷後これを広めたことで成東・東金地域に学問熱が起こり、特に熱心な八人がさらに江戸に出て迂斎の門に入った、これがいわゆる上総八子である。
上総八子の一人、東金岩崎の櫻木誾斎(1725-1804)は、後に長崎聖堂の教授となり、その地の武士、庶民を教化し多くの門人を作った。
迂斎の子黙斎は、八子の鵜沢近義を頼って、清名幸谷村に移居し、20年間周辺の子弟に学問を教授した。(しゃしんがある)
この中に北幸谷の大木丹二(1765-1827)がいる。黙斎は丹二の人柄を特に愛した。
丹二もよく誠意をもって師事を尽くした。また、寺子屋を開き子弟を教育した。
これらによって、上総道学はこの地に植えつけられ、健実な道徳学が多くの人たちを訓化し、教育の振興に尽くした功は大きいものがある。 和算は世界の数学者が驚くほどレベルが高く、中期の数学者・関孝和は多元高次方程式、行列式、ニュートンの近似解法、ベルヌーイ数の発見など当時の西洋の高度な数学の大系と同等レベルに達していた。植松是勝(1790-1862)は、22歳で免許を受けて石流7世となり、故郷宿村の自宅に約40年間塾を開き石流和算を教授した。東京の浅草寺には、安政5年(1858)に門人達によって建てられた「五瀬植松是勝先生明数碑」がある。
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