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水野茂右衛門
天保7年(1836)の〈日本長者分限帖〉
江戸時代、八鶴湖にほど近い上宿(かみじゅく)に水野茂右衛門という商人がいたといいます。この茂右衛門という人物、じつは全国にその名をとどろかせた豪商と言われ、その大名ごとき生活ぶりが房総各地の民謡や田植え唄、座敷歌などの歌謡として唄われてきました。また、鳶職の人たちが唄う木槍歌には「東金」という歌がいまも関東各地で唄い継がれていたり、当時の歌舞伎の演目や人形浄瑠璃、長唄のなかにその存在が登場したりしています。
茂右衛門は酒と醤油の醸造を行って巨財を積み上げたといわれており、商売の手を広げて大阪から綿を、紀州からみかんを買い入れて、東海道五十三次を「丸に水」の旗のぼりをたてて派手な行列で江戸へ運び込んだとの評判が立つほどだったといいます(東金市史総集編)。
その存在は、茂右衛門の半世紀前に活躍した紀伊国屋文左衛門(「紀文」)や、奈良屋茂左衛門(「奈良茂」)という富豪に匹敵するといわれるほどでした。「紀文」、「奈良茂」の豪遊ぶりは江戸でもたいへん有名でしたが、茂右衛門もまた吉原で大盤振舞いをやって世間をあっと言わせるなどの武勇伝が誇張されて、狂言のモチーフとして取り上げられました。(桜井頼母「唐金茂右衛門東鬘」1746年)。そうして一世を風靡すると、さらに川柳や長唄などに様々なエピソードが加えられるようになったようです。
唐金茂右衛門のモデルである水野茂右衛門という大実業家は、専門家による最近の調査では酒や醤油ではなく、「紀文」、「奈良茂」同様に材木商であったと見られています。天保7年(1836)の〈日本長者分限帖〉には、日本全国の豪商が東西に分かれて相撲番付のごとく1枚の紙に描かれています。その中に[上総唐金茂右エ門高一万五千石桐林二里四方有此度御改なし]とあり、茂右衛門が桐の材木を商っていたことが分かります。水野家では代々茂右衛門を襲名しており、明治15年(1940)までに8種類の長者番付に「唐金茂右衛門」の名前を確認することができます。
最盛期の茂右衛門邸は広大で、現在の上宿から東金高校に入るあたりにたくさんの蔵が建ち並んでいたと伝えられていますが、現在は日吉神社の近くの墓地に水野栄震(ひでなり 一七八〇年没)、栄陳(ひでのぶ 一八四〇年没)の二人の茂右衛門が眠っている以外に当時を窺い知るものは残っていないのです。
大野伝兵衛
東金を代表するもう一人の豪商と言えば、大野伝兵衛の名前があがります。
大野家は代々『伝兵衛』を名乗り、六代目の『伝兵衛』秀澄(1750~1825)の時代に小児薬『一角丸』を製造販売し巨富を得ました。
その孫にあたる八代目『伝兵衛』秀頴(1830~1876)は、27歳で東金領主だった陸奥福島藩主板倉家の御用金御用達頭取となりました。またその翌年、江戸でコレラが流行した際に家伝薬を無償で患者に施し、奉公より大金の褒美を受けました。そして31歳の時に所有の山林や畑二十町歩を開いて茶園経営をはじめるのです。製造方法は宇治に倣おうと男女30余名を呼び寄せて事業に従事させました。するとその茶が評判になり、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)より「東嘉園」という名まで賜わりました。
商社を通じてアメリカにまで輸出されるようになった製茶事業はたくさんの雇用を生み、五色に染めた旗のぼりの色で組を分けて近所の農家や海岸の船方の奥さんらがお茶を摘む姿を『伝兵衛』は大好きな黒毛の馬に乗って見回ったのだそうです。宇治からやってきた男女工により茶摘み唄の替え歌が伝わり、大勢の茶摘女たちによって唄われました。
♪宇治の新茶と大野の古茶が出逢いましたよ横浜え
馬が来た千両箱つけて大野どこだと尋ね来た
お茶の茶の茶の木の下でお茶も摘まずに色ばなし
揉めよもめもめ揉まなきゃならぬ揉めば茶となるお茶となる♪
♪東金よいとこ北西晴れて東山風そよそよと
お台所と川の瀬はいつまでもどんどん続くだろ
ここの旦那は馬好きで黒毛変わる毛数知れず♪
36歳になった『伝兵衛』は「東嘉園」を他人に授けて、自らは桑園を開いて蚕業の発達を目指しましたが、明治9年に46歳の若さで病死しました。
九代目『伝兵衛』には婿養子に来ていた佐藤尚中(蘭学医で東京順天堂の創始者)の次男、鉄次郎が襲名しました。『伝兵衛』は地元の名士として、稼業だけでなく郵便局長を務め、銀行も興しました。
今となってはかつての茶園は跡かたもなく、当時の労働歌唄える人もいません。現在、有栖川親王直筆といわれる「東嘉園」の額と東金出身の画家飯田林齋が茶園全景を描いた「東嘉園画巻(全12枚)」が文化財として残されていて往時を偲ばせています。